とくしまヒストリー ~第17回~
「瓢箪島 」 -城下町徳島の地名5-
ひょうたん島といえば、「新町川を愛する会」が運航されている「ひょうたん島クルーズ」を連想する。両国橋からスタートする、この6キロほどのクルーズは、見どころが豊富で時の経つのを忘れてしまう。
まず、助任川から見た徳島城北側の風景はどこか寂しげで古城の雰囲気を漂わせているし、人柱伝説を持つ福島橋を通る時には何かヒヤリとするのは私だけであろうか。そして、新南福島で右に曲がると、眉山をバックにした雄大な新町川の流れが目の前に現れ、徳島の自然の恵みを感じさせる。江戸時代も津田口から入って来た船舶は、この風景を見ていたのだろう。そう思うと実に感慨深い。たった30分ほどのクルーズだが、徳島の自然と文化が楽しむことができて感動的だ。ひょうたん島の代表的イメージは、このクルーズだろう。
現代親しまれている「ひょうたん島」は、新町川と助任川、福島川に囲まれたエリアが瓢箪形をしているので、このように呼ばれている。ところが江戸時代には、このエリアを示す「ひょうたん島」の地名はない。
江戸時代の「瓢箪島」は、徳島城に隣接する西の丸・御花畠と出来島の間の小さなエリアで、武士の住む武家地だった。同所にあった堀が瓢箪の形に似ていたため瓢箪島の地名が生まれたのだ(「阿波志」徳島城博物館蔵)。ちなみに、江戸時代には漢字表記、今日はひらがな表記と、使い分けがなされている。この違いが大切だ。
この瓢箪形の堀は、現代では前川橋へ通じる道路になっていて、その痕跡はみられない。元は、徳島城と出来島とを仕切るために設けられた軍事的なものであったという(『徳島市民双書・28 徳島城』)。この瓢箪堀は、もとは助任川に通じていたが、築堤されたため水が充分に入らず、江戸時代前期には芦原となり、650坪と310坪の二つに分かれていた(「出来島富田佐古御絵図」国文学研究資料館蔵)。
瓢箪島は徳島城に近かったので武家地として早くから成立し、寛永年間(1624~1644)にはすでに武家屋敷が確認できる(「忠英様御代御山下画図」国文学研究資料館蔵)。正保3年(1646)の「阿波国徳島城之図」では、徳島城西の丸と出来島の間の広域エリアが「瓢箪島」と記されている。この時点では御花畠は未成立だ。寛文5年(1665)の「阿波国渭津城之図」(徳島県立博物館蔵)では御花畠は成立している。
武家屋敷を管理した普請奉行が享保17年(1732)に作成した「御家中屋敷坪数間数改御帳」には、津田藤内(350石)436坪、森田林助(315石余)844坪、井上分蔵(のち太郎左衛門・200石)720坪、斉藤弥三右衛門(150石)440坪、林与九郎(150石)514坪、長谷川甫庵(150石)346坪の6軒の武家屋敷が登載されている。いずれも知行取りの藩士ばかりだが、たった6軒しか武家屋敷がないのに「瓢箪島」の地名が付けられたのは、特徴的な瓢箪形をした堀があったからに他ならない。
ただし、天保14年(1843)に12代藩主斉昌が隠居し徳島城西の丸で暮らし始めると御花畠は拡充され、それに伴って瓢箪島の武家屋敷は収公されたものと思われる。さらに明治2年(1869)3月には練兵所となっている。
地名の元になった瓢箪堀は明治時代以降も残った。明治22年(1889)に落成した徳島監獄署(のち徳島刑務所)の写真を見てみると、水は少なそうだが堀は顕在だ。人々は監獄といわず「瓢箪堀」と呼んだのだという(『写真集 徳島百年 上』)。こんな話が伝わっているのは、瓢箪堀が江戸時代から続く名残として市民の記憶に残っていたからだろう。しかし、現在では瓢箪堀は埋められ道路となり、その痕跡は全くみられない。
音読みは同じだが、ひょうたん島には、江戸時代の武家地の「瓢箪島」と現代のクルーズで親しまれる「ひょうたん島」があることがお分かりいただけたと思う。同じ地名であっても、その内実は全く異なっていたのだ。
地名には幾多の歴史が刻まれ、現代に至っている。だから地名は歴史遺産といえるのだ。
「阿波国渭津城下之絵図」、天和3年(1683)、徳島城博物館蔵。
[写真解説]
武家地の瓢箪島と出来島。この図では表現されていないが、その間が瓢箪堀。
大正13年(1924)に撮影された徳島刑務所(もと徳島監獄署)。
[写真解説]
手前が瓢箪堀。徳島編さん室提供。
参考文献
『写真でみる徳島市百年』、徳島市役所、1969年
『写真集 徳島百年 上』、徳島新聞社、1980年
『徳島市民双書・28 徳島城』、徳島市立図書館、1994年
『日本歴史地名大系37 徳島県の地名』、平凡社、2000年
高田豊輝著・発行『阿波近世用語辞典』、2001年
『徳島城下絵図図録』、徳島城博物館、2012年(初版2000年)
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