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徳島市立 徳島城博物館
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とくしまヒストリー ~第24回~

「八百屋町」 -城下町徳島の地名12-

 現在、店舗やマンション・住宅が相半ばする内町は、江戸時代には徳島藩の御用を務めた豪商たちが軒を並べた特別な町だった。東西に4筋の大きな道があり、その両側に町が広がっていた。


「内町画図」個人蔵、江戸後期

 最も北が紙屋町(徳島市一番町1~3丁目)で三丁目まであった。北から二筋目は、八百屋町(徳島市八百屋町1丁目)、中町(同2丁目)、紀伊国町(同3丁目)。その南が通町。同町は事代(ことしろ)主(ぬし)神社(じんじゃ)の「えべっさん」で有名だが、同社は明治初年の移転。江戸時代には藩主が領内を巡視する際に通行した道筋であったので、通町の名があった。最も南が新シ町(徳島市中通町1~3丁目・両国本町1丁目)で、通町と同じく三丁目まであった。他に、内魚町(徳島市幸町2丁目・中通町1丁目)、西横町(徳島市元町1~2丁目)、内船場町(徳島市藍場町1~2丁目)があった。
 以上が内町だが、なかでも八百屋町は国道192号線が貫通し高層ビルが立ち並び、往時の面影を全く留めていない。
 八百屋町の地名の由来は、江戸時代後期の地誌「異本阿波志」(徳島県立図書館蔵)に、「家政公御入国のせつ、魚屋・八百屋ハ御城近く有へき旨とて此丁を八百物町に被 仰付、外にて売買御制禁被 仰付」とあり、藩祖蜂須賀家政が城下町徳島を開いた時に、魚屋と八百屋は徳島城近くにあるのがよいと、当地を八百物商売の御免地として他町での売買を禁じたことによる。つまり、八百物商売を許されたから八百屋町となったのである。
「八百」の語は、『広辞苑』によれば「数のきわめて多いこと」の意味で、八百屋は野菜だけでなく数多くの品物を扱っていたのである。


「町奉行の通達」徳島城博物館蔵

 天保13年(1843)に町人たちに出された町奉行の通達で、その一端が窺われる。他町では商売を禁止され八百屋町でしか扱われなかった品物は、熨斗、数子、栢(柏)、穂俵、昆布、土器、箸類、氷豆腐、麩などであった。「栢」は柏の俗字で、食器の総称。「穂(ほ)俵(だわら)」は、干して藁で束ね、米俵の形とし、新年の祝儀の蓬莱(ほうらい)飾りに用いた(『広辞苑』)。まさに野菜以外にも数多くの品物を販売していたのが分かる。
 しかし、江戸前期の寛文7年(1667)と延宝3年(1675)の二度にわたる内町の大火で、物資調達に支障を来したことから、城の北側の町人地、助任にも八百屋と魚屋が許され商売することができるようになった。ただし、八百屋町という地名は内町だけに限られた。
 文化12年(1815)に編集された藩撰の地誌「阿波志」(徳島城博物館蔵)によると、蜂須賀家政が城下町を開いた時の御用商人・職人は33名を数える。この中に「菜肆(なし)四郎左衛門」という人物がいた。彼は城下町開設時から徳島城で殿様が食べる野菜類を調達し、「八百屋」と称した。その子孫も代々八百屋町に住んだという。
 やはり、八百屋町の草分けは八百屋だった。当たり前のような話だが、現在の様子と比較すると、実に新鮮な歴史だと思う。

参考文献

『日本歴史地名大系37 徳島県の地名』、平凡社、2000年
絵図図録第2集『徳島城下とその周辺』、徳島城博物館発行、2001年

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徳島市立徳島城博物館

〒770-0851 徳島県徳島市徳島町城内1番地の8

電話番号:088-656-2525

ファクス:088-656-2466

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