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徳島大空襲:佐藤 昭

最終更新日:2016年4月1日

 徳島市八万町 佐藤 昭

 徳島大空襲の数日前に栄町を中心にして、五百キロ爆弾五発ほどの空爆があったのを鮮明に覚えている。私は新町小学校の六年生で、登校していたが、九時ごろ、二軒屋の方の空を見上げるとB29の三機編隊が三十センチぐらいに見えて、飛行機雲をひっぱっていた。「今日は低空だなあ。」と思っていると、突然、ピカピカと胴体から光を発して、頭の上から、強風の日に竹林を歩いたようなザーという音がした。ちょうど家の前に大型の防火用水があったので、そこに身を伏せていると、二十センチほどの土が持ち上がる感じがして、壁の土がもうもうと出て、三十センチ先もわからず、息ができないような感じになった。
 そこへ、母が帰って来て、「あきら、あきら」と叫んだので、手を振りながら「ここじゃ、ここじゃ、こっちにおる。」と答えた。そして、右手と左手をつなぎ合わせて、裸足のまま、鷹匠町から大道の方へ逃げた。
 大道二丁目か三丁目に、全面ガラスの店があったが、爆風を受けて全部のガラスが飛び出して歩ける状態ではなかった。裸足だが仕方ないので、帯を足に巻きつけてゆっくり歩いた。毘沙門天さんに行ったら何とかなるのではないかと思い、山門をくぐるとすぐに水があったので、顔と手を洗い、水を飲んだ。
 そこから、また手を引き忌部さんのあたりまで歩いて、後ろを見ると、秋田町と思われるところでもうもうと土煙が立っていた。これでは、家に帰っても焼けているかもしれないと思った。腹は減るし、蚊は来るがしかたがないので一時間ほど辛抱した。
 それから、大道、中央通り、栄町を通っていくと、爆弾の落ちた跡は六、七メートルの池ができて、全部傾くか吹き飛んでいた。
 家に帰ると、母の弟が必死になって私たち二人の亡骸を探している途中であった。そこへ、私たちが帰ったのでみんなが「よかった、よかった。」と言って涙を流した。しかし、隣組の人は多数亡くなった。
 Kさんのお母さんが、喉に爆弾片の傷ができ血が噴出して止まらなかった。Kさんが抱きしめると「水、水」という声が聞こえたので、欠けた茶碗に水をくんできて、二、三回飲ませてあげたのが最後であった。
 その人は、非常に空襲を恐れており、また、非常に頭のいい人でもあったので、酒を作る桶を買ってきて、一メートルほど埋めて、自分で防空壕を作っていた。そこに入っていたら命は助かっていたが、入る力を失ってしまった。これが一番の悲しみである。
 私の家は借家をいくつか持っていたが、その内の一つだけ、下は吹き抜けていたが、何とか屋根は残っていたのがあったので、青年団に雨戸を立てて外を囲ってもらい、住むこととしたが、食べるものがないのには苦労した。
 八万町に多少の田があって、年貢米が入ってきていたが、倒れた家の下敷きになって米の中に泥が入っていた。それを一升瓶に入れて竹で突き白米にしていた。
 いよいよ、徳島大空襲の日になったが、焼夷弾攻撃を受けるとは思いも寄らなかった。いつものように空襲警報発令中なので、飯を食って、防空壕へ入れるようにしておこうと、おにぎりと、きゅうり一本に梅酢をかけて食べたのが、あの地で食べた最後の晩餐である。
 音がし始めたら防空壕に入れるように、蚊帳の中で数時間待機していたが、雨がジャーと降るような感じで油が降ってきた。「これはおかしい、あぶないなあ。」と思っていると、まもなく、空襲第一波がきた。防空壕の中で、B29のゴーという低空の音がして、目と鼻を伏せて、背中を桶に向けて座っていると、ピーンピーンと二、三発の焼夷弾が落ちてきた。そして、線香花火のように巻き、住んでいた家の座敷に火がついた。Kさんが「母が二度焼けになるので、お骨を取りに戻る。」と言ったが、みんなが「行くな、お骨は掘り出せる。」と押し止めた。
 ようやく火が収まってきたので、山に向かって逃げた。ところが、中央通りの二階建ての家が猛火で、くぐり抜けることが不可能なため、鷹匠町の方に向かって走った。途中、何軒も家が崩れていた。体が熱く喉も渇くので、沖浜の方で水を求めた。線路沿いに南に下がり、八万小学校でトイレを借りようとしたら、八万国防婦人会の方が、おにぎりとこんこを用意していたのでもらった。
 それから、上八万の方へ向かったが、舗装道路でなく歩けたのが一番うれしかった。市原を抜けて、園瀬川の橋に行くとたくさんの人が着の身着のまま逃げてきていた。
 その後、母の里に行くと、兄弟が無事に寄って来ていたので、冷たい水で顔や体を洗い、シャツを着てくつろいだ。しばらくすると、睡魔がきて、ずいぶん寝た。夜ともなればホタルやカエルの鳴き声がした。
 それから、また母とふたりで歩いていくと、大道あたりは、アスファルトがへばりつき、歩けるような状態でなかった。
 母が何よりも米を気にしていた。家に入ると畳に火が残っていて、足に大やけどをした。
 薬がないので冷やすしかない。見渡すと、今の富田橋を渡ったあたりに氷会社があって、氷が外に積まれていたので、それをもらい、母の足を冷しながら、八万に帰ってきた。米は全部丸焼けで食べることができなかった。徳島大空襲は、人生七十八年のうちで大きな転換をさせられた。

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